登場人物

楊貴妃

中国唐代の皇妃楊貴妃は元々玄宗の息子の妃であったが、玄宗に見初められ22歳で玄宗の後宮になった。
玄宗は国事を怠け楊貴妃との愛欲の生活に溺れた。
国の秩序は乱れ国力は低下の一途をたどったが、楊貴妃の一族は繁栄し、宰相に上り詰めた従兄の楊国忠は権勢をふるい民衆から恨まれていた。
安禄山らによる「安史の乱」から逃れようと楊貴妃を伴って蜀へ向った玄宗は、逃げる途中で近衛兵たちに脅され、やむなく楊貴妃の縊死を命じた。
この時 楊貴妃は38歳であった。
しかし、山口県には楊貴妃が中国から日本に流れ着いたという伝説が存在し、長門市油谷町に楊貴妃の墓がある。
また、日本にいる楊貴妃の死を知った玄宗が送ったという仏像が山口と京都にあると言われている。

高仙芝(こうせんし・コソンジ)

唐代、玄宗に仕えた武将。唐に滅ぼされた高句麗流民の末裔。
容姿が美しく弓術・騎射に優れ、勇敢であったとされる。
河西軍所属の父・高舍鶏に従い西域へ行き、20歳で遊撃将軍を授けられる。
747年吐蕃(チベット)と組む小勃律を討つため、一万の歩兵・騎兵を率いてパミール高原越えの大遠征を行い勝利。
西域諸国を唐に服属させる。751年安西四鎮節度使としてイスラム軍をタラス河畔に迎え撃つものの大敗。
この世界最初の東西大戦で捕虜・杜環が製紙技術を西方世界に伝えることとなった。
755年安禄山の反乱勃発。討伐軍副司令官として兵十万人を率いるが、一時退却を「敵前逃亡・官庫横領」と無実を着せられ、これを信じた玄宗により処刑される。

慧超(えちょう・ヘチョ)

新羅出身の僧。10代半ばに留学生として入唐。
インド(天竺)から海路入唐した金剛智に師事し(719)密教を学ぶ。
722年頃金剛智の勧めで師とは逆ルートの海路で渡印。
インド諸国(五天竺)の仏跡から西方ペルシアまで巡行。
中央アジア、パミールを越え陸路で唐に還る(727)。
その大旅行の足跡は『往五天竺国伝』に著された(玄奘三蔵『大唐西域記』後約80年のインド・西域状勢を記す基礎文献)。
733年金剛智の元で受法し、訳経に従事。
『大乗瑜珈金剛性海曼殊室利千臂千鉢大教王経』を訳出。
師の死去後は不空(705~774)の弟子となる。
晩年は山西省五台山で経典研究・修行に渾身。新羅に帰郷することなく唐で生涯を終える。